non-noメンバーに登録すると
いろんな特典が盛りだくさん♡
インタビュー
2024.11.08更新日:2024.11.25
12月6日に横浜アリーナで開催される『モーニング娘。’24 コンサートツアー秋 WE CAN DANCE !〜Blå Eld〜石田亜佑美 FINAL』をもって、モーニング娘。’24およびハロー!プロジェクトを卒業する石田亜佑美さんに、non-no webがインタビュー。
石田さんはモーニング娘。初の宮城県出身メンバーとして東北とモーニング娘。を、グループ随一のダンスマシーンとしてダンスや音楽を愛する人とハロプロを、途切れない情熱を持つサブリーダーとして歴史あるグループの先輩と後輩を……モーニング娘。やハロプロといろいろな人を繋いできてくれたメンバーです。
そこでこの連載では“繋ぐ”というキーワードを立て、これまでの石田さんのモーニング娘。人生を紐解いていきます。第一回目はモーニング娘。以前の石田亜佑美と、初の宮城県出身メンバーとしてモーニング娘。に加入し、東北とのさまざまな繋がりをもたらすことになるまでを振り返ります。石田さんお気に入りのぬいぐるみも交えたキュートな写真と共にお届け。
“モーニング娘。以前”の石田亜佑美の歩み
――ダンスとの出合いや地元・宮城で活動を始めたきっかけから教えてください。
小学校一年生の時、友達の影響でチアダンスを始めたのがきっかけです。友達との時間が楽しくて始めたことではあったんですけど、実際にやってみたら自分で思っていた以上に体が動くし、楽しくて。そして幼いながらに「せっかく踊るなら真ん中に立って目立ちたい!」みたいな気持ちもしっかりとある子だったので(笑)、どんどんダンスにのめり込んでいきました。そして小3の時に楽天のチア(楽天イーグルス チアダンススクール)に入って、東北ゴールデンエンジェルスJr.チアリーダーズとして活動を始めました。Jr.チアにはクラスがたくさんあって、主に年齢などで分けられていた記憶があるんですけど、時々オーディションで選出されるスペシャルクラスみたいなものがあって、それに受かると特別なパフォーマンスができるんです。初めて受けた時は落ちてしまったんですけど、次の年に挑戦したら受かって。それぐらいから「私、もしかしたらダンスが得意なのかも」という気持ちが生まれた気がします。ちなみに2004年に東北楽天ゴールデンイーグルスの公式応援歌だったモーニング娘。の『THE マンパワー!!!』の存在は、実は当時まったく知りませんでした。
――チアの活動を経て、宮城のタレント事務所に入ることになったのはどんな理由があったのでしょうか?
目立ちたがり屋だったので、いつかTVに出てみたいという気持ちがありました。それでTVに出るためにはどうすればいいのかと思って調べたら、事務所という存在にたどり着いて。それで親に相談して、地元にある事務所のオーディションを受けることにしたんです。まずは書類を送って、その後に事務所の方と面談をしてレッスンに通うことになって。半年ぐらいたってからかな、グループを組んでアイドル活動を始めることになりました。それまでメイクもまったくしたことがなかったので、親に教えてもらいながらヘアアレンジやメイクの練習をするところから始めて。衣装も自前だったので、家族にはすごくサポートしてもらっていました。活動を始めて少ししてから、当時はまだ“推し”という言葉はなじみがなかったと思うのですが、いわゆる私を推してくれるファンの方たちが現れて。今でも覚えているぐらい、すごく印象に残っています。その頃は学校終わりにレッスンに行って、休日はイベントに出演するという日々を送っていました。
――そこからモーニング娘。のオーディションを受けることになった経緯について教えてください。
宮城の事務所では何度か所属するグループが変わったのですが、最終的には看板的なグループに入ることができて。すごくうれしかったんですけど、そこでもっと上に行きたいという欲も同時に出てきました。そんなタイミングで事務所に貼ってあったモーニング娘。のオーディションのポスターを発見して、「これだ!」と思ったんです。詳しくはなかったけれど、モーニング娘。が有名なアイドルグループということは知っていました。『とっとこハム太郎』が好きだったので、ミニモニ。さんの印象が特に強かったですね。あとはちょうど9期さんのオーディションが開催された後で、その映像が世の中に出ていて。それでとにかくイメトレをして……。(オーディションって)こんなことをやるんだ、という勉強をそこでして心の準備をしていました。怒られているシーンもありましたけど、それを見て怖くなるというよりは、「自分だったらどう対処しよう」みたいな感じで戦略を考えたりしていたのを覚えています。
――オーディションを受けるにあたって不安などはなかったですか?
それが全然なかったんです(笑)。絶対に受かる自信しかなかったんですよ、当時は。オーディションは2次審査が仙台で、3次審査からが東京でした。3次審査のときの課題曲はモーニング娘。やスマイレージさんの楽曲のほかに、いきものがかりさんの曲などもあって自由に選べたんです。それで一番聞き覚えがあるいきものがかりさんの楽曲をやろうとしていたら、地元の、事務所が同じ友達に「モーニング娘。さんのオーディションを受けるんだから、モーニング娘。さんの曲をやらないと!あゆみんには『泣いちゃうかも』が似合うと思う!」って言われて。そのアドバイスがなかったら『泣いちゃうかも』という楽曲に出合えなかったし、今の未来はなかったかもしれないのですごく感謝しています。
――オーディションには石田さんの他にも宮城からの参加者がいましたが、意識したりはしていましたか?
周りのことは全然見えてなかったです。とにかく自分のことに集中していました。宮城で一緒に活動していた子も参加していて、その子の存在はもちろん知っていたんですけど、オーディションという場所では仲間ではなくライバルなんだ、という意識が不思議とありました。知り合いだからといって一緒に勝ち残っていけるような世界ではきっとないから、それぞれが頑張るしかない、みたいなことを考えていましたね。
モーニング娘。史上初の東北出身メンバーに
――オーディションは東日本大震災の直後に開催されました。
私の家は割と早い段階でライフラインが復旧したんです。なので被災した街の状況や津波の被害の様子は、徐々に知っていくことになりました。悲しい気持ちや不安な気持ちは抱きつつも、確か震災の2ヶ月後ぐらいにオーディション開催が発表されて、それを知って挑戦したいと思って……。その審査に通れば東京に行くことになるというのも分かっていたので、今思うと両親はそんな状況下で私の“やりたい” という気持ちを優先してくれて、よく送り出してくれたなと思います……。当時は今みたいに物事を引いた目で見ることができなかったし、何もよく分かってなかったですけど、とにかく家族にはすごく応援してもらっていました。
――オーディションに合格してモーニング娘。で初めての東北出身メンバーとなりますが、そのことについて当時はどんなふうに思っていましたか?
正直そこに対して自分では意識がありませんでした。ただ東北出身のファンの方々をはじめ、「待っていたよ!」「やっと東北の子が来てくれた」という応援の言葉をたくさんいただいて、そこですごく自覚しました。
――オーディションに合格して周りからの反応はどんな感じだったのでしょうか?
オーディション中、密着映像も出ていたのですが、友達には何も言っていなかったので反応は特にありませんでした。私の性格を知っていて、気を遣って言わないでいてくれただけかもしれませんが……(笑)。でもモーニング娘。に加入することになって転校する日に、担任の先生が英語の先生だったんですけど、授業中に「私は写真を上手に撮れます」という例文を急に出してきて。そうしたらクラスメイトが「先生、本当に上手に撮れるんですか~?」みたいな感じで乗ってきて。「撮れるよ」「じゃあ撮ってくださいよ!」みたいな流れで、結果的にクラス全員で授業中に集合写真を撮ることになったんです。それは私のためのサプライズだったみたいで、本当に最後の最後だけ写真を撮って、色紙とプレゼントをもらって、みたいなうれしい出来事がありました。クラスのみんなも先生も、カッコいいですよね。成人式のタイミングでも私は地元に帰ることができなかったんですけど、集まったメンバーから「応援しているよ」というメッセージと、懐かしい名前がたくさん書かれた寄せ書きを友達経由でもらいました。
――素敵なエピソードですね。そこから上京してきて東京での暮らしにはすぐ慣れましたか?
割とすぐ、東京の暮らしに慣れることができました。でも上京して半年か、一年ぐらいのタイミングだったと思うんですが、急に“東京にいることに疲れたなあ”と思ってしまった時がありましたね。そのことを親に打ち明けたら「多分ホームシックになっているから、一回地元に戻る時間を作ったらいいんじゃない?」と言われて。自分ではホームシックなんて意識はまったくなかったのでそこでハッとしました。
――ここからは活動についてのお話を聞いていきたいのですが、メンバーカラーが発表された時の気持ちは覚えていますか?
青はもともと好きな色でもなく、嫌いな色でもない存在だったんです。だから「青です」って言われた時も、そんなに大きな感情にはならなくて「はい」みたいな感じでした(笑)。でも今となっては納得する要素が多いし本当に青でよかった、と思いますね。私がモーニング娘。になりたいと思ったのは、カッコいいアイドル像があるグループだからだったんですけど、青ってまさにそのイメージにもぴったりじゃないですか。メンバーカラーの衣装を用意していただいた時も「似合う」と言っていただけたりして、自分でも「確かに……!」みたいな(笑)。ライブの時にペンライトで青を振っていただくのは昔から今に至るまでずっとうれしいんですけど、最初の頃は田中れいなさんの水色とあまり見分けがつかなくて実感しづらかったんですよね。「きっと田中さんの水色だろうな」って思い込みもあったと思います。だから初めてしっかりとペンライトを認識したのは10期イベントの時ですね。10期カラーの中だと青はすごく目立つので、そこでやっと心から実感することができました。
――初めて参加した単独ツアー『コンサートツアー2012春 〜ウルトラスマート〜』で仙台への凱旋を果たした時のエピソードなどもお聞きしたいです。
胸がいっぱいになって、すごく泣いた記憶があります(笑)。地元での公演となるとすぐに泣いちゃうんですよ。なので、その始まりとなったコンサートでもありました。地元での公演は何度経験しても毎回緊張するんですよ。親戚が見に来たりするので恥ずかしさもあるし、地元だからこそフィーチャーしていただくことが多いので、それもさらに緊張に繋がって。先ほど最初の頃は田中さんと自分のペンライトの色の見分けに自信がなかったという話もしたのですが、凱旋の時のアンコールはみなさんが青を振ってくれるので、そこで本当に感動します。どの会場にも思い入れはあるんですけど、仙台サンプラザホールに初めて立った時は地元で大きな会場に立てたことがすごく嬉しかったですね。あと最初のツアーでは『女子かしまし物語』を披露したんですけど、そこで「仙台育ちのダンスマシーン、宮城を背負って行くだけよ」という歌詞をいただいて歌ったのが始まりなので、その答え合わせを今できているんじゃないかと思って、なんだか感慨深いです。
――家族や親戚の反応はどうでしたか?
我が家の両親はコンサートに来ても感想をくれないんですよ(笑)。私のことを思ってそうしてくれているとは思うんですけど……。でもとにかく見に来てくれますね。親戚もよく見に来てくれるのですが、最新のだけでなく歴代のペンライトをしっかり使っていて、使えるものはちゃんと使おうという石田家っぽい精神を感じます(笑)。ちなみに今回のラストツアーも表向きには「旅行も兼ねて」と言っているんですが、両親はすごい出席率でいろいろなところに見に来てくれてありがたいです。宮城に住んでいるおばあちゃんもすごく応援してくれていて、家に遊びに行くと私の写真だらけなんです。地元のテレビ番組に出演するのも毎回楽しみにしてくれていて、そういう反応を見ていると地元で活躍できることの喜びを改めて噛み締めますね。
「東北を背負ってくれてありがとう」の声がうれしい
――石田さんが加入したタイミングから毎ツアー仙台公演があったり、東北地方でのコンサートの頻度が少しずつ増えたように感じますが、その実感はありましたか?
そう言っていただけることが多くてうれしいです。モーニング娘。になってから宮城、岩手、山形と、福島ではツアーをさせていただいて、青森にも『Hello!Project 2020 ~The Ballad~』で行くことができたんですけど、秋田にだけはまだ行けていないのが本当に悔しくて。東北にはやっぱりすごく思い入れがあるので。東北の人って6県それぞれがお互いをすごく身近な存在に感じていると私は思うんですよね。実際にファンの方でも福島から山形公演来たよ、みたいに声を掛けてくださる方が多いですし。地元愛、東北愛が強い人が多いので、そこからファンになってくれた方もいますし、「東北を背負って(活動して)くれてありがとう」っていう言葉を掛けていただいた時には、すごく達成感を感じたりもしました。
――リーダーの生田衣梨奈さんが2024年の春ツアー仙台公演のMCで「亜佑美ちゃんが東北とモーニング娘。を繋いでくれた」と言っていたことも印象的でした。実はこの言葉は、今回のテーマが浮かんだ理由の一つなんです。
私個人は東北出身であることを誇りに思ってずっと活動していましたけど、それを周りがどう受け止めるか、認めてくれるかというのは別の話じゃないですか。だから身近にいるメンバーやファンの皆さんから認めてもらえるとやっぱりうれしいです。でも東北でライブがたくさんできたこと、ツアーで毎回宮城に行けていることは自分一人の手柄などではなく、集まってくれる方がいるからこそ成り立っているので、そこはみんなで繋いでいったことだなとも思います。
――2014年から仙台放送にて『あらあらかしこ』の番組内コーナー「石田亜佑美が行くっ!」が始まりましたが、その思い出を教えてください。
気づけば10年もやらせていただいているんですよね。番組で一番の長寿コーナーらしいです!最初はコーナーが始まる前に2回ぐらいゲストで呼んでいただいていたんですよ。そこからノリでコーナー名とレギュラー化がトントン拍子に決まって……。私は宮城出身ではあるんですけど、そのわりには宮城のことを全然知らないから学びたいなと思っていて、その思いをこのコーナーで叶えていただきました。こういう経験は地方出身だからこそだなと思いますし、地元が一緒というだけで皆さんにはすごく温かく受け入れていただいて。たとえば農作業とか収穫をするだけでもとにかく褒めてくださるんですよ(笑)。そして「卒業したらうちに働きに来てください」みたいな感じでたくさんオファーもくださるので、本当にありがたいです。収録でお邪魔したお店にはその後もプライベートで通ったりしていますし、私だけではなく家族や、ファンの皆さんも行っていたりするみたいで。お仕事きっかけではあるのですがその近い距離感が地元ならではで心地よいです。
――コーナーを通して改めて感じた宮城の魅力はありますか?
初期の頃に奥州・仙台 おもてなし集団 伊達武将隊の方々が“おもてなしの心”を教えてくださったんですけど、それまで私は宮城に“おもてなし”の文化があることをまったく意識していなくて。でも後から考えてみると、宮城公演のケータリングの方が毎回優しいコメントを残してくださったり、お弁当ひとつひとつに手書きのコメントをつけてくださったり。誰かがツアーファイナルの時はわざわざボードを用意してくださったり……。そういう表からは見えない部分でもすごく“おもてなし”をしていただいていたことに気がつきました。そういった新しい気づきをもとに地元愛もより強くなっていきますし、出会った方をはじめ大切なものがどんどん自分の中に増えていって、番組を通して頑張るパワーをたくさんもらっています。だいたい月に一回ぐらいのペースで宮城に行って収録をしていたんですけど、『あらあらかしこ』の私は普段のモーニング娘。の時とは全然違うラフさがあって、それをディレクターさんにもいいと言っていただいていたので、とにかく素の状態でいられました。だから過密スケジュールの合間の撮影でも、逆にリラックスできるような感覚がありましたね。
――2018年には元アンジュルムの佐々木莉佳子さんと共にイーグルスガールのイメージキャラクターに選ばれました。同じ宮城県出身の佐々木さんとの思い出なども是非教えてください。
同じハロー!プロジェクトに宮城出身のメンバーがもう一人いたことはすごく心強かったです。でも思い返すと、一番最初の頃は、宮城が自分だけのものではなくなってしまうかもしれないという不安もありました。というのも、もうすぐ新メンバーが発表されるタイミングの凱旋公演で「宮城の子が入ってくる可能性もあるから、そうしたら一人での凱旋はこれがラストになるかもしれないね」と言われた時に私、泣いてるんですよ(笑)。結果、莉佳子はアンジュルムに加入したのでそうはならなかったんですけど。でもイーグルスガールのようなお仕事に関しては、自分だけではなくて莉佳子という存在がいて、二人だったからこそ叶った出来事かもしれないと思っているので本当に感謝しています。そして莉佳子は10期が大好きと最初から言ってくれていたので、それがすごくうれしくて。最初は同じ地元の可愛い後輩というイメージでしだけど、どんどんカッコよくなっていく姿も見ていて、尊敬していたし、そんな莉佳子と一緒に地元でのお仕事ができて誇らしかったです。
ラストとなる仙台凱旋公演、地元のイメージに重なる楽曲について
――ハロー!プロジェクトのコンサートで最後の仙台公演、そして今回のツアーでは千秋楽を含めた仙台公演が2回あることについてもお話を聞かせてください。
ハロコンのラスト仙台はシンプルに楽しかったです。この光景を目に焼き付けようとは思いつつも、まだラストという実感はそこまでなくて。毎回そうなんですけど大好きなハロプロメンバーやファンの皆さんが仙台に来てくれることが、ただただ本当にうれしいんですよね。公演だけじゃなくて私の家族からの差し入れに喜んでくれたり、ファンの方が「帰りにずんだシェイク買いました」みたいな投稿をしてくれたり。公演以外にも楽しんでいる姿を知ることができると、地元民として本当に幸せな気持ちになります。そして最後ということもあり、今回のハロコンでは同じタイミングで卒業するアンジュルムの川村文乃ちゃんと『スタートライン』を歌わせてもらって、それもいい思い出になりました。
ツアーに関しては、最後まで東北制覇ができなかったことを申し訳なく思っていたのですが、スケジュールが発表になったときに卒業公演前の通常ツアーのラストが仙台になることを、ファンの皆さんが想像以上にすごく喜んでくださったんですよね。それは「こんなに喜んでくれるんだ!」って驚いたし、とても嬉しかったです。先日ちょうど1回目の仙台と、盛岡でのラスト公演を終えてきたばかりなのですが、仙台では立ち見席まで出てすごい人数の方に来ていただいて感動しました。盛岡の公演も、たくさんの方に青いペンライトを振っていただいてありがたかったですね。これが最後になる方もいるだろうし、とにかく楽しもうと思ってコンサートに臨んだんですけど、仙台の昼公演の最後、はける瞬間に泣きそうになっちゃいました。ビジョンにも抜かれていたのでファンの皆さんにもバレていたかもしれない(笑)。11月25日が最後の仙台公演になるんですけど、まだ全然実感がわかないです。卒業すること自体は実感しているんですけど、モーニング娘。を卒業したらモーニング娘。のライブができなくなることの想像はなぜかまだできなくて。ちゃんと意識してかみしめなくちゃとも思うんですけど、でも意識したらきっと寂しさが押し寄せてきて、いつもの自分ではいられなくなってしまうので、どっちのほうがいいのか分からない状態で今は過ごしています。
――石田さんが卒業すると現時点でハロプロから東北出身者のメンバーがいなくなる予定ですが、今、東北でアイドルを目指している子たちに向けて伝えたいことはありますか?
今開催されているオーディションの締切直前に宮城でキャンペーンをさせていただいたのですが、そこでたくさん呼びかけをしてきたので、誰か入ってきてくれたら嬉しいなとは思います。私が言うのもあれですが、私が卒業する今はある意味チャンスだと思うんですよね(笑)。強みの一つには絶対なるし、これからも東北でのライブを盛り上げてくれる新しい存在が現れてくれることを願っています!
――最後に地元・東北を思い浮かべた時にイメージする、モーニング娘。の楽曲を教えてください。
『君さえ居れば何も要らない』です。この曲は恋愛ソングではあるんですけど、たしか震災にも重なるようなイメージでつんく♂さんが書いてくださった曲でもあるんです。この曲は多分もう会えなくなった人を思って歌っているんですよ。会えなくなってしまったことを経験した人を、もうこれ以上悲しい気持ちにさせないでくれという願いも込められていると思っていて。私は震災での経験を重ねてすごく共感します。音が機械的で淡々としているので、ともすれば不気味な感じもあるかもしれないんですけど、それ以上に地球のエネルギーだったり、そこに人間は負けちゃいけない! ということを私は感じています。歌割で「目をキラキラさせて~」というパートをもらえたのも印象的で。当時もうれしかったけど、今振り返っても一番ぐらいにうれしかったですね。
モーニング娘。’24のInformation
11月27日(水)に通算17枚目の、石田亜佑美さんにとってはラストとなるアルバムが発売に!石田さんのダンスにフィーチャーしたリード曲『勇敢なダンス』をはじめ、13曲を収録。初回生産限定盤に付属するBlu-ray Discには、春ツアーの舞台裏に密着した『モーニング娘。’24 MOTTO DOCUMENTARY in BUDOKAN』(Huluオリジナル番組)も収録。
⚫︎いしだ あゆみ 1997年1月7日生まれ、宮城県仙台市出身。『モーニング娘。10期メンバー『元気印』オーディション』に合格し、2011年9月29日にモーニング娘。10期メンバーとして加入。2012年1月25日に48thシングル『ピョコピョコ ウルトラ』でCDデビュー。現在はサブリーダーを務める。メンバーカラーはロイヤルブルー。ニックネームはだーいし、あゆみん。トップレベルのダンススキルを持つことから“ダンスマシーン”という異名を持つ。
トップス¥12100/レイ ビームス 新宿 その他/スタイリスト私物
撮影/山越翔太郎 ヘア&メイク/河嶋希(io) スタイリスト/佐藤朱香 取材・原文/武内亜紗